MVPと裏切り者の違い(1)

こんにちは!!
s-Live 東京つつじヶ丘校です。

前回まで続いていた偉人の父親シリーズはいったんお休みして、
今回は、歴史上の人物でやったことは似たようなものなのに、
評価が真逆になっている人物について、ご紹介したいと思います。

ズバリ、その人物とは、小早川秀秋前田利家です。

ご存じの方も多いので、軽くの説明ですませます。

まず、小早川秀秋とは、大河ドラマではかなりの確率で軟弱な若者として描かれることの
おおい人物です。

彼は、関ケ原の戦いのときに、豊臣秀吉の養子という立場から西軍に属していましたが、
東軍の総大将である徳川家康と合戦中に裏切るという密約を交わしていました。

新しい研究では、小早川秀秋が最初から東軍に属していたという説も出てきていますが、
本筋には影響がないので、省略します。

そして、いざ関ケ原の合戦が始まっても、小早川秀秋は動きません。

しびれを切らした徳川家康が、小早川秀秋の軍勢に向かって鉄砲を撃ったところ、
徳川家康が激怒していると思った小早川秀秋は、慌てて西軍へ攻め込み、
西軍は壊滅したという逸話があります。

もちろん、細かいエピソードは逸話なので、史実と異なる部分や脚色もあると思いますが、
豊臣秀吉の養子であった小早川秀秋が、敵である徳川方へと裏切ったという事実は動きません。


一方、前田利家とは最初は織田家に仕えていたエリートでした。

というのも、織田信長が若かったときに、いつも一緒にいるメンバーとして
よく城下を回っていたようです。

一時的に、クビになった時期もありましたが、桶狭間の戦いの際に活躍した時から
復帰し、その後はエリートの登竜門である母衣衆というメンバーに抜擢されます。

織田信長の親衛隊+戦場での情報伝達を任される立場です。

その後も、柴田勝家という織田家重臣であった柴田勝家のサポートとして、
対上杉家の戦いに従事していました。

そして本能寺の変の後、織田信長の後継の座を巡って、
柴田勝家豊臣秀吉と対立するようになりました。

それで柴田勝家側として参加した賤ケ岳の戦いにおいて、土壇場で戦場を離脱し、
それが原因で柴田川は敗北してしまします。

豊臣秀吉と親交があったという点もありますが、当時の情勢で、
仲の良さだけで自分の身の振り方を変えるというのは考えずらいですし、
最初から豊臣側で参戦していれば、その論理も通じるかもしれませんが、そうはしていません。

このように、小早川秀秋前田利家はやっていることに大差はないですが、
小早川は「裏切り者の代名詞」として語られ、前田は「利家と松」なども描かれたように、一定の人気者となっていました。

今回は長くなってしまったので、次回でその評価の差を解説していこうと思います。

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